「来て欲しいお客」が開けやすく、開けたくなり、覗き込んだ瞬間に「すてきだ!」と心躍らせるような状態にお店を保っておいたりすると、良いとやはり思います。「世界」づくりの一環として。
自分のお店に「来て欲しいお客」ってどういう人なんだろう。ここしばらく考えていました。いや、考えることはもうずっと前からしてたのですが、それを改めて言語化しようと試みていました。ひつじがは(おそらく夜学バーも)不特定複数が自由に来店できるのがウリの場ですが、だからといってそこが何でもアリの無法地帯になってはいけない。例えば夜の川に遊びに行く際にあらかじめ想定されるような《危なさ》は回避する(あるいは負う)ことはできても、全く予期できない危険性には対処のしようがありません。そのような、悪い意味での想定外がなるべく起こらないようにどんな人にいてほしいかを常日頃から想像して、その人に喜んでもらうにはどうしたら良いかを考え実践し続けることは、おっしゃる通り「世界」づくりの一環でありきっと根幹であると目から鱗をぽろぽろと零しました。
世界と世界との間には溝があって、でもそこが川になって魚が泳いだら素敵だし、言葉や身体を使って伝え合うこともできる。
お店とか「場」というものは、一面、こういうように各人の世界の間をつなぐ川のような存在なのかもしれないな、と思うことがあります。
ここ数日ずっと教えていただいたAmikaさんの『世界』を繰り返し聴いていました。今も聴きながらお返事を書いています。心地の良い声で、耳にやさしいですね。他の曲も素敵。(良い意味での)想定外で知らなかったものを知れて、いつもながら有難いです。
『世界』の歌詞世界(ややこしい)に引っ張られながら、このところはお店を《世界地図》のようなイメージで捉えて、考えていました。出くわす場面ごとに常に変わり続ける地図。その中には当然店主であるわたしの「国(世界)」があって、来店したあなたの「国」がある。地図上における店主の位置を基準にして(良いのかどうかわかりませんが)、各々が自分の国を地図上に落としていく。二国間の距離は人によって異なるし、地図上遠くに位置する人もいれば誰かのそばに位置する人もいる。その置いた位置によってその場にいるそれぞれとの距離感が決まってしまう。
あたしの世界とあなたの世界を
つなげてしまいたいと思うくらい
どうしようもなくひかれたなら
あたしは川に橋を渡らせて
あなたの世界につながる道を
時間がかかっても作るでしょう
(Amika『世界』)
距離感が近づくことは決してお互いの世界同士が近づいたわけではなく、あくまでお互いの間に橋がかかった状態(という解釈が『世界』の中でも特に痺れました)。
相手に近づくために自分が変わりましょう(相手を変えましょう)みたいな乱暴なアドバイスをするノウハウ本も巷にはありますが、大切なのはそういう「どうやってどちらかの世界を動かすのか」ではない。我々が本当に学ぶべきなのは「どうやって相手との間に橋をかけるのか」と、ひょんなことから人間関係を良好に保つ気づきを得たような気がします。
ひとつの場に自分のほかAさんとBさんがいて、位置関係がちょうど自分を間にして対極にAさんとBさんがそれぞれいるとします。ここで仮に物理的に世界を動かす(自分が動く)方法で相手との距離を詰める場合、Aさんの方に近づけば近づくほどBさんとは離れてしまうことになり、うまくいかない。もちろん逆もおんなじ。できればどっちとも仲良くなりたいのに、どっちかを選ぶともう一方とは自然と離れてしまう。こんな形で生じる人間トラブルも少なくはないと思います。
ここで仮に相手との間に橋をかけるような繋がり方を知っていたら、自分の位置を動かすことなく、AさんともBさんとも(その他何人とでも)近づくことができます。机上の空論かもしれませんが、趣向の違う複数人が仲良くなるときは大抵(無意識下で)橋をかける行為がなされているはずです。
「じゃあどうやって橋をかけたら良いの?」
我々のやっているお店の出番です。お店というひとつの地図の中で日々刻々と入れ替わる人たちと一緒にお互いの世界を渡るための「橋のかけ方」を学ぶ。いや、全員と橋をかけなくても良い。まずは地図上における自分(国)と相手(国)の位置関係をイメージすることを学ぶ。それが、こういう小さなお店が提供できる何よりの価値だと思います。
ここまで長々と《お店》の中での世界について話しましたが、別にこれはお店に限らず各自が所属している全ての組織に当てはまることで、切り取る範囲を大きくすればお店という世界(国)になるし、逆に小さくすれば個人(世界地図)の中に様々な分人(国)を描くこともできそうです。全てに共通して大切なのは、瞬時に地図として頭の中に描くことと、構成している人たちを地図上に落とし込んでいくこと。それがうまくできるようになれば、社会の中のありとあらゆるところで美しく過ごす準備ができるだろうし、場の中でそれができる人が増えていくことが、結果的に場を美しく保つことにも繋がっていきそうです。色んな橋がかかって、自由にそこを渡り歩いて、魚も泳いで、それをみんなで眺める。抽象的ですが、美しい世界とはそういうものなのだろうなと思いました。
最後に冒頭の「来て欲しいお客」論に戻りますが、ひつじがに来て欲しいのはお店という大きな世界を美しく保とうとしてくれる人。その中で一緒に泳いでる魚を眺めてくれるなら嬉しいし、自分の頭の中で飼ってる魚(話題/思考)を放流してくれたら尚のこと嬉しい。逆にそうやって放流された魚たちを殺してしまう(環境を破壊する)人には来て欲しくない。言葉を借りまくってかつ抽象論に逃げた感は否めないですが、一旦そんなところでまとめました。
ただ、今回のように他者に求める理想を文章にすることにはまだ若干の抵抗があります。というのも、こうやって文章で書いてしまうと書かれたものが全てだと受け取られる可能性があり、やっぱりそれがおそろしいという気持ちが消えません…
例えば、僕は日頃から「若い人」に来て欲しいと言っているのですが、別にこれは「若くない人」に来て欲しくないと言っているわけではありません。でもそれを見た一部の人からは「自分は若くないので求められていない…」と受け取られてしまうかもしれない。それが先にあげたようなひつじがに来て欲しいお客であっても、(年齢制限を勝手に設けられてしまって)来てもらえないのを気にしています。
この場合に限らず一般的にも、「言語化してない=思っていない」と極端に捉える傾向が年々強まっているように感じます。なので、保険をかけて長々と回りくどく書かなければならないし、世に溢れる注意書きなんてその典型です。
書けば野暮になるけど、書かなければ伝わらない。その狭間でやきもきすることが、こうやって文章を書いていると度々あります。ジャッキーさんも日頃たくさんの文章を書かれていますが、その中で「書くこと」と「書かないこと」の塩梅をどうやってつけられていますか?