>>白金ニューヒツジホテル

日報(230515)

五月十五日(晴れ)

17時定刻開店。昨日の疲れが抜けていないのか、ぼんやりしつつ数刻が経った。

前回一人で遊びにきてくれた某氏がお連れ様と一緒に来店。知人に紹介したくなる(連れてきたくなる)ほど気に入ってもらえるのは嬉しいし、実際に連れてきてもらえるのはすごく嬉しい。しばらくは読書をしていたので、便乗して本を読みながら共に静かな時間を過ごす。一時してふらりと新刊本コーナーに向かい、帯文に惹かれたと言って『形見』を手にとってくれた。それぞれ読書を中断し、今日連れてきた人が場づくりに興味があるので話をして欲しいと紹介してもらった。直近は静岡の下田に住んでいたので、そこ(店主の苗字が「下田」なのも並々ならぬ縁を感じたとのこと。どんな縁があるのかは定かではないものの、興味を持ってもらえるのは有難い。その後しばらくインタビューのような時間が続いた。

店に立っていると度々こういう機会が訪れるが、その度に自己の掘り下げができて良い。店を開くまでに考えていたことを今一度振り返ったが、その中でふと大学生の頃一人で飲んでいたら度々周りの大人たちに優しくしてもらったことや就職した年のご飯代を周りの先輩たちから出してもらっていたこと、その他諸々の大人によくしてもらった原体験を思い出した。今振り返れば周りに恵まれていたとしか思えないけど、当時はそれが当たり前だと思っていたし、自分が大人側になった時にそれを当たり前にするものだと思っていた。他人(社会)からもらったものを他人(社会)に返す。その一環でひつじがも始めた。

もらったものを返す(贈与返礼)の関係性は同世代の中では起こりにくい。一部友人関係などで例外はあるけど、その関係性を赤の他人との間に構築するのであれば色々な世代が集まっている方が都合が良い。色々な世代の他人が集まる場所の例えでよく公民館や町内会、商店街などを使うが、今日来店した某氏は町内会の催しに参加したことがないのでそれにまつわる思い出がないと言っていた。町内会の行事だったり地元の商店街のお祭りだったり、そういう経験がぽっかり抜けている(そもそもないものを「抜けている」と表現するのが正しいのかはわからないが)世代はおそらく年々増えている。また、数年の間会社(その他)の飲み会が制限された中で、その期間中に上司(先輩)に奢ってもらう体験をできなかった人たちも少なくはないと思う。町内会であれ会社であれそういう色々な世代が集まる場所で、大人側から何かを与えてもらう経験をする機会が減少していく中で、仮にそういう体験を一度もしないまま大人になった人たちが周りの若い人たちに何かを与えることができるだろうか。できたとしたらよっぽどの人格者だと思うし、そういう人にはぜひとも会いたい。

話が脱線したが、そもそも何かを「返す」ためには何かを「もらう」ことをしなければならないし、もらう体験ないまま誰かに与えることは返すではなく「あげる」でしかない。同じ行動をとっていても「返す」と「あげる」ではその意味合いががらりと変わってくるし、世の中から余裕がなくなればなくなるほど、意味がある「返す」よりも意味のない「あげる」行為をするのはむずかしくなる。(もろもろの余裕があれば話は別)

ひつじがを始めた頃からそういう「もらう」と「返す」の関係性を(せめて自分の周りには)残したいとの思いが少なからずあったし、さらにその「返す」をもらった相手ではなく次の世代(昔の自分)に渡せるような関係性を作れたらという気持ちはずっと変わらずにある。公民館や町内会や商店街の祭りを通して、体験した人間の関わりを、(今は)飲食店の中でなんとか再現しようとしている。そんな話をしてインタビューは終わった。

次回来店時にまた進捗報告しますと帰る姿を見送り、この日初めて会った人たちに対して何を返せたかなと静かな店内で反芻した。